セザンヌ
▼『画家の父』1866年(25歳)
『石膏のキューピッド像のある静物』1895年頃(55歳)▲
セザンヌはかなり革新的なことをやった人だが、筆致や雰囲気はほぼ最初から固まっている。画家というものは「最初からやりたかったこと」を追求して自分のスタイルを作っていくことが多いのか、たいてい初期の作品からでも完成期につながるテイストがにじみ出ている。
『画家の父』は写実的には描かれているが太く固いタッチはすでに「セザンヌ風」である。父親も椅子も現物の質感からは引きはがされ、永遠のイデアに結晶化しようとしていて、それは右の後年の様式にそのまま一直線につながっている。やはりこの人、若い頃から相当頑固だったんだろうな(笑)。
(もっともセザンヌにも10代に描いたルネサンス風の壁画とか、もっとすごいピカソの学校課題のように完成期の様式とかけ離れたものもあるが、そういう明らかに修業時代の作品はここでは除外することにする。)
ところで他の画家の場合はどうか。
トゥールーズ=ロートレック
▼『洗濯女』1884年(20歳)
『ムーラン・ルージュに入るラ・グーリュ』1891-92年(25-6歳)▲
ロートレックは若い頃は印象派の影響が強くてもっとふわっとした絵を描いているのだが、このモデル、女流画家のシュザンヌ・ヴァラドンを描いた絵はなぜかかっちりと古典的だ。ポスターを描き始めてからは輪郭線がはっきりしてくるし、それ以前も「線」で描こうとする意思がところどころ浮き出ているのだが、この『洗濯女』だけは特に変わったところがなく普通に上手くてきれいな絵になっているのが面白い。
ロートレックは一つの画面の中に様々な手法を織り交ぜるので古典的な作品があってもそんなに驚きはないかもしれないが、次はどうだろう。
ファン・ゴッホ
▼『編み物をするスヘフェーニンゲンの女性』1881年(28歳)
▲『星月夜』1889年(36歳)
ゴッホは描き始めたのが遅い上にすぐ死んでしまったので画業は10年に満たない。独特の荒々しいタッチはごく初期の頃から現れるが、それでも左のような端正な作品も描いているのである。
こういうのを見てぱっと浮かぶ正直な感想は「あんたら普通に描けたのね」 というところである(笑)。もっとも普通に描けなければ頭に中にある構想も形にできないのだから当たり前だが、こうして目の当たりにするとやはり驚きを感じる。
モネ
▼『緑衣の女性』1866年(26歳)
▲『積みわら、夕陽』1890-91年(50-51歳)
ザ・印象派、モネといえば右の『積みわら』や『睡蓮』シリーズようなモヤモヤした風景画が思い浮かぶが、左のようなかっちりとした古典的な絵も描けるのである。それも、かなり上手く。
この左の 『緑衣の女性』はサロン初出品で入選して絶賛を浴びた作品である。描いた当の本人はこれを「がらくた」と評している。この作品は本来出品予定していた大作が間に合わなくなって急遽4日間で描き上げたもの。のちの「モネらしさ」はみじんもないが、シンプルな構図と形態は美しく質感の表現は素晴らしく狭い諧調の中での色彩の描き分けは見事と言うほかない。
個人的には印象派連中の中で単純に「絵のうまさ」、描く能力という点ではモネが頭一つ抜けていると思う。モネにとってはサロン入選なんてやろうと思えば朝飯前、だからやりたいことをやるためにあっさりサロンを見限ってしまう。この人はできることとやりたいことが終生はっきりと見えている人だった。
画家の初期の作品を見ると、その人が見ていたものがより明らかになってくるように思える。
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