フランスの芸術アカデミーはルイ14世の時代に始まる。ルイ14世は中央集権の絶対王政に芸術を利用しようと考えた。芸術アカデミーはそれまでの徒弟制度をシステム化し、それまで不文律的な価値観であったものを明文化して序列を付けた。たとえば歴史画が最上位で静物画が最下位という主題の差別である。「権威のための芸術」であるアカデミズム絵画は、どんなものにも序列を必要とした。
この王立芸術アカデミーはフランス革命によっていったん廃止されるものの、それに代わるものがないためにまた再興される。そしてこの人工的な価値観も生き残ってしまう。
アレクサンドル・カバネル:『ヴィーナスの誕生』(1863年)
アカデミズム絵画の代表的作品、描いたカバネルは当時の画壇のエースである。なんともなまめかしい、というかエロい。「神話画だからOK」という芸術的価値観の「明文化」によってこのようなあからさまなエロが堂々と開陳されることになる。この「ヴィーナス」と称する女が寝ているのが、仮にベッドであればこの絵は許されなかったはずである。こうした矛盾を、エドゥアール・マネは自分の『草上の昼食』によって容赦なく指摘する。
ウィリアム・アドルフ・ブグロー:『ニンフとサテュロス』(1873年)
芸術アカデミーの最重鎮、ブグローの代表作。まあ見事なものである。印象派以前はこうしたしっかりと塗り込めた「仕上げ」が大切だった。そして印象派への主な批判はまずこの仕上げが無いことであった。
しかし筆致を残して塗る技法が印象派以前に無かったわけではない。 特にスペイン絵画、ゴヤやベラスケスの絵は一見写実的だが、近づいて見るとかなり大胆に筆の跡を残している。隅々までびっちり塗り込めるのはたしかにイタリア古典絵画からの伝統ではあるが、なにもそれだけが「正統な」技法だったわけではない。
ジャン=レオン・ジェローム:『ピュグマリオンとガラテア』(1890)
これら見事な出来ばえのアカデミズム絵画を見ていくとなにかしら違和感を感じ始める。絵画とは、芸術とはこういうものだっただろうか?その違和感の原因は、この彫像が生身の女に変わるギリシャ神話をモチーフにした絵を見ると明らかになるかもしれない。
これまた上記2作品と同じくエロい絵である。むむむむぅとかいう音が聞こえてきそうだ。これは技術こそ芸術的だが、中身は「萌え」絵である。ライトノベルや漫画にはジャンルとしての「萌え」ジャンルが存在していて、 類型的には「冴えない普通の男のところに突如美少女が押し掛けてくる」といった内容である。枝葉として世界を守る役割を担わされたり超自然的な要素が付いてきたりする。
物語というのは時には登場人物自身が自律的になり、作者といえども好き勝手には動かせなることがある。そこを好き勝手に動かすと「ご都合主義」となる。「萌え」ジャンルにおいては逆に各人物の行動原理が彼ら自身に持たされていない。人物の行動は完全に受け手の願望に握られており、そこから外れることは「ファン」が許さないという事態も起こる。
『ピュグマリオンとガラテア』の登場人物は明らかに自律性を持たされていない。彼らはまったくジェロームや鑑賞者の「願望」に沿うために生まれてきている。そしてその存在の虚ろさを糊塗するためにことさら生々しい行為に励むのである。キプロス王であるピュグマリオンが一介の若い工人のように描かれている点にも注目。
芸術史に埋もれてしまったこれらアカデミズム絵画は再評価もなされているが、「芸術」の範疇でとらえようとすると様々な齟齬が起こると思う。そして芸術的観点からの批判を浴びて再び貶められることになる。アカデミズム絵画は芸術絵画とは違うジャンルの良くできたエンターティメント、「萌え絵」として評価されるべきなのである。
かつて偉大な哲学者を数多く生み出したフランス人はあらゆるものに理屈を付けて回りった。それが現代社会の根幹をなす思想を生み出すことになる。芸術の世界でもフランスは20世紀の爆発的なイノベーションをリードする。
それに対して、理屈と大人の事情から生まれたアカデミズム絵画も一つの偉大なる抵抗勢力、芸術分野の洪水を起こすために決壊を運命づけられたダム、としての役割は果たしたと言える。アカデミズム絵画を見ていると我々が芸術の何を見ているのかが明確になってくるからである。
結局、お前も序列を作ってアカデミズムを差別してるやんけ。
返信削除エンタメを切り離してる時点で思考が、かつてのアカデミズムそのもの。
芸術はエンタメやろ?
絵は子供の落書きから低俗なエロ漫画に至るまで全て芸術。
アカデミズムを萌え絵とこき下ろしているが、仮にそのスタンスに則るなら西洋の春画が妥当やろ。
芸術を決めつける事、それがまさに人工的な価値観なんじゃねーのか?