さて前回からこの本多勝一氏の「日本語の作文技術」を読んでぼくはこうおもいました、という内容を書いているわけだが、ここで書いている事は本の主旨とは違うところもあるので購入の参考にする場合は注意されたい。
常体と敬体と体言止め
よくおかしな文章の例として常体(~だ/~である)と敬体(~です/~ます)が混ざった文体が挙げられることがあるが、この本では本人の文章や良い例として上げられている文にもたまに常体/敬体の取り混ぜが見られる。実はこれは僕も意識してやっていることでもある。では常体の中に敬体が突然現れるケースとその逆ではどんな感じがするのか、実演してみよう。
とは言えこのブログは基本常体で書いているのでわざわざまとまった例文を作るほどでもないのだが、常体というのは基本的に不特定多数に演説しているように感じられる文体である。その中に突然敬体が紛れ込むと、急に自分に向かって話しかけられたように感じませんか?まるでそれまで立派な建前を語っていたのが、突然ポロリと本音がもれたみたいになる。あるいは客いじりをはさむようなものか。現実の客いじりと同様、やり過ぎると趣味が悪いが「論理のほころび」をわざと作りたいというような時にはなかなか使える手段だと思う。
次に敬体の中で常体が突然出てくるパターンですが、まずこのブログ自体が常体なのでこのように敬体のまとまった文が入ると気味悪く感じます。急に自分が客いじりに遭った心境ですね。作家の全集などでは講演録とかだけ敬体だったりしてしばらく慣れるのにページを要します。あれはなんとかならないでしょうか。せめて時系列じゃなくて文体で掲載順を分けてもらいたいものです。さてそろそろ慣れてきた、ということにいたしまして、ここに突然常体が紛れ込むと急に独り言をつぶやいたような感じになります。否定語だったらもう、有無を言わさず反論も聞かないといった雰囲気を醸し出します。もしそうでないと言う人がいたら、それはありえない。しかし常体の中に敬体が入る場合もその逆もどちらも「本音がもれた」感じになるのは面白いですね。
文体を常に固定しておくと書いている人間の「キャラ」が固定されるような気がする。そしてどちらにしてもきちんと主張を唱える感じになるので、そこから逃れるためにたまにわざと文体を取り混ぜるのですが、その他にも方法はある。その一つが、体言止め。
体言止め。体言止めでは語尾に持ってくるのが名詞や名詞化した言葉。語尾に色を付けないので無色透明なキャラで書いている気がする文。しかしこの文体自体が持ってる色が実は強烈。自分では一歩引いてるつもりでもはたから見ると猛烈に厚かましい印象。まるで自分は最後まで言い切らないけどちゃんと察してよ、みたいな傲慢さ。体言止めを多用する文からは受けるイメージは書き手の精神的な幼さと優柔不断さ。あと言いっぱなし感にあふれるこの文体は「~は○○」といった構文しか作れないので内容も単純。新聞記事で多用されているが、あれはあくまでも文字の容量の問題。
この体言止めは自分でも多用していた時期があって、自分もよくないとは思いつつ続けてしまっていた。 要は普通の文体で最後まで言い切る自信がなかったのである。しかし何であろうと文章を発表する以上は主張をして言い切らないわけにはいかない。何かしらは言いたいが主張はしたくないなんてのはありえないのである。このあたりは改めて反省していきたいところ。語尾をきちんとするのが重要。体言止めは基本的に不要。
以下その他読んでいて気付いた点などを列挙してみる。
「」(カギカッコ)による引用は正確に
本多氏は自著に書いていないことを書評で「」付きで引用されたことがあってそれについて怒っている。僕の場合サイトを紹介する時などに「」の中に自分なりの要約を書くことがあるのだが、本多氏によるとこれは掟違反となる。「」は会話文ならその人が言ったままを表現する。引用ならば「カギの中は、あくまで原文に忠実に従わねばならない」ということを頭に入れておいた方がいいだろう。
漢字とかなの使い分けは読みやすさ優先
これは個人的には目から鱗だ。今までは自分なりの原則に従うことが大事だと考えてきた。しかしどちらでもいい場合には漢字仮名交じり文の読みやすさという長所を生かすという意味でも柔軟に対応した方が良い。(例:「今まさに」「いま着いた」etc.)もっとも僕はペンで書かない漢字はデジタルでも基本的に変換しない主義だ。最近よく見る「捗る(はかどる)」などは書いた人をあまり見たことがない字でとても気持ち悪く感じる。
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