2013/04/20

本多勝一著「日本語の作文技術」を読んでわしも考えた

僕は子供の頃は本ばかり読んでいて国語なんかは勉強しなくてもそこそこ出来たのだが、このブログを読むと分かるとおり自分で文章を書くとなるとからきしである。しかし最近まとまった量の文章を書く必要に迫られてきたためにこういう本を買ってきた。

文章の書き方に関する古典的名著、本多勝一氏の「日本語の作文技術」。

内容のレビューなんかは他サイトにいくらでもあると思うので、ここでは読んで思い付いたことを連ねてみたい。


「。」の打ち方


「。」の数はそのまま文の長さに関係する。少し本の内容から外れるが、注釈の中にある悪い文の例が面白かったのでちょっと引用してみる。(P43)

アダム・スミスの正体を見抜き、終始スミスと対決し、『国富論』が「諸国民の富の原因と性質」を客観的に究明しようとしたものではなく、学問的な扮装を凝らしてはいるが、その実「大英帝国」を富強にするための方策を経済学の衣をかぶせて提案したものに過ぎないことを叫びつづけ、後進資本主義国家としてのドイツをスミスの謀略的な「ポリティカル・エコノミー」の影響からどうやって救い出すかに生涯を賭け、心ならずして二月革命(1848年)の二年前、闘争疲労のはて、オーストリアのクーフシュタインで、雪の日、ピストル自殺を遂げたフリードリヒ・リストに対して、スミスの生涯はどうだったか。

なんと冒頭の「アダム・スミスの」から最終行「ピストル自殺を遂げた」まで全部がその次の「フリードリヒ・リスト」にかかる修飾である。本多氏はこの文について、誤りではないが「(悪い意味で)珍しいスタイル」と述べている。

いまここで赤の他人の文章をあげつらって嗤っているわけだが、この種の詰め込みすぎの長い文というのは実は僕もたまにやってしまう失敗である。

やたら長い一文というものを書いてしまう精神状態を考察するに、まずは伝えるべき事より言いたい事を優先させてしまう自己中心性、次に「,(コンマ)」によっていくらでも文をつなげられる欧文構造に対する憧れというか西洋かぶれ、さらに自分はこのように長いセンテンスをしっかり頭に入れられるのだ、つまり賢いのだというひけらかし、これらをまとめると「衒学趣味」ということになろうが、長い一文というのは日本語の場合まったく無用であることが多い上に読みづらく、おまけにその根底にある意識がお粗末とあってはどうにも救いのないものであり、そのような文章を以前自分でも書いてしまったことを思い出して冷や汗をかいてしまうほどだが、長い文はこのように「が」を接尾語にして続けることが多く、本多氏は順意と反意が明確でないこの「が」の使用は極力控えるよう説いているのだが、いい加減タラタラ文を続けてないでさっさと丸を打て。

長い文はこのように主述が合わなくなることも多い。 短い文の方は本の中では触れられていないが、どうなるかやってみよう。

短い文。つまり「。」が多い。モーニング娘。思いつきだ。思いつきで書いてる感じがする。何が大事なのか。何が大事でないのか。わからない。むしろ全部大事。俺の書く事は一言一句全部大事。インスピレーション。芸術。そう言ってる。そんな感じがする。全部の行間開けて書く人にも通じる。そしてポエジー。散文なのにポエジー。無意識に韻を踏む。踏んでも潰れるだけ。潰れて飛び散る。散文だけに。

読んでいるとイライラしてきたと思う。わざと長い文章を書くのは結構楽しいのだが、短い方は書いていてもなぜかイラつく。あとバカっぽい。複雑なことを書けない。なぜか。短いから。まとめろ。それから書け。そんな感じだ。


「、」の打ち方


句読点の「。」の打ち方に続いて「、」について。「、」の打ち方というのは学校の教科書などではせいぜい「多すぎても少なすぎても いけません」と書いてある程度だが、自分ではなんとなく少なめの方が良いと思ってきた。これは少なめの方がリズムが良いだろうという程度の考えだが、本多氏はもう一 歩踏み込んで「少ないほどよい」と主張している。語順を上手く組めば最小限の「、」で読みやすい文章が作れるはずだという考え方である。

というわけで少なすぎる「、」というネタは割愛して多すぎる「、」の文を書いてみることにする。

とは、言うものの、「、」が、多すぎる、人というのは、時々、見かける。この、文体は、小学生一年生の、教科書を、思い起こさせる。「さいた さいた さ くらが さいた」。大の、大人が、書くと、非常に、テンポが、悪い。なかなか、次の言葉が、思い浮かばない。もう、やめても、いいですか。

絶望的なテンポの悪さもさることながら、この文体の一番問題な点は不要な区切りによって文の意味が断ち切られて複雑な内容を表現できなくなることである。実際バカっぽい。「。」が多すぎる文体もやはりバカっぽいがあちらが子供ならこちらは老人のイメージ。子供と老人には失礼な話だがそういう印象を受ける。

さて「、」については多い少ないという問題などよりもっと面白い、間違った所に打ってしまう例がある。文中の「~である」とか「~だろう」といういかにも終止形に なりそうな所に打ってしまうのである。例えば「~である○○」「~であろう○○」という文の場合だと、前後の修飾の関係をぶった切って意味を変えてしまうので結構深刻な悪癖と言える。ちょっと難しいがこれを実演 してみよう。

間違った所に「、」を打つ癖について考察してみるに考えられる、原因はいったん文を句読点無しで書いてしまって後から「、」を打つ場所を探して打っている、のではないかということである。他には「、」を打つ原則が「長さ的にちょうどいいところ」である、ために意味とは関係なく終止形っぽいところで打ってしまう、可能性も考えられる。しかし書いてから思ったがこの文体は意外によく見かける、ような気がする。なんとなく「読み上げ調」それも書いてある、意味がわからずに読んでいる、人みたいに感じられる。それをわざわざ自分の文章でやってしまう、というのはやはり面白い。

なんだかラジオ通販の売り口上みたいのを連想する。要素要素を強調して結論も強調しようとするとこうなるとか。 しかしこの区切り方はくせになる、ような気がする。面白がってやってる、うちにうっかり使ってしまう、ことになりかねない。注意が必要だ(笑)。

続きます。

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