2015/11/19

2012年のチリ映画「NO(ノー)」


2012年公開の「NO(ノー)」は独裁政権と戦うある広告マンを描いたチリ映画。

1988年、チリのピノチェト政権は政権に対して「Yes」か「No」か信任を問う国民投票を実施する。これは欧米からの軍事独裁体制批判をかわすのが目的であった。反政府側の「No陣営」に許されたのは深夜に流される15分のCMのみ。ガエル・ガルシア・ベルナル演じる気鋭の広告マンがそのCM制作に挑む。

当初「No陣営」はこの国民投票で勝利できるとは考えていなかった。軍事独裁政権下ではどうせ不利な戦いを強いられ、国民は「Yes」に投票するよう脅され、結果も捏造されるに決まっている。だから政権に一矢報いて次の抵抗につながればいいとだけ考えていた。

主人公の広告マンはそんなNo陣営が作った、ピノチェト政権の非道を訴える暗く深刻なCMに「No」を突きつける。「これでは勝てない」。彼は「本当に勝つ」ためのCMとして、独裁が去った後の明るく楽しい世界のポジティブイメージを前面に打ち出したCMを制作する。

この映画は史実を元にしているため、ストーリーを純粋に楽しみたい人はまったく予備知識なしで観る方が良いかもしれない。しかし歴史的結末くらいは知っているという人はむしろ色々予習して観た方が細部も含めて様々な角度から楽しめるだろう。

DVDはamazonヨドバシで買える他、DMMレンタルでも扱っている。

そして以下のレビューは下に行くほどネタバレ全開なのでご注意。
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この映画でまず特筆すべきは映像表現だ。83年製造の日本製カメラを用いて撮影することで当時のアーカイブ映像と自然なつながりを持たせている。そのため観客はまるで80年代当時の作品を観ているかのような気分にさせられる。

ビンテージカメラによる古びた映像の中には当時の調度品が配置されている。丸いブラウン管テレビ、大きなボタン類を装備したがっしりとしたVTR機器、そして当時の最先端家電である電子レンジ。劇中電子レンジで調理したチーズトーストを食べるシーンがあるが、想像するだにまずそうだ(笑)。

アーカイブ映像、つまり当時の実録である資料映像は全体の実に3割を占める。それが違和感なく映画の一部として見られるのだからかなり衝撃的だ。「当時そのまま」の小道具には人物までも含まれる。反体制側の大物、パトリシオ・エイルウィン役にはなんと本人が登場。1918年生まれのエイルウィンは2015年現在96歳、映画の撮影時には少なくとも90歳以上にはなっているはずだ。

これはご本人の高齢をものともしない偉丈夫ぶりがあってのこそだが、彼をよく知るチリの人にとっては時空を超える錯覚を呼び起こすのではないだろうか。(もっとも現在の好々爺がTVの中でいきなりかくしゃくと語り出す違和感はある。しかしこれはかなりわざとらしいので多分意図的なものだろう。)

圧巻なのは終盤近くの騒乱シーンである。 ここはおそらく映画撮影とアーカイブ映像が細かく入れ替わっているためまるで当時の状況に主人公達がいるような錯覚に陥る。

CGが発達した現代の映画でも最も難しいのは実は群衆シーンだ。大勢のエキストラ全員に命がけの本気の演技をさせるのは現実的に不可能で、せいぜい指示した通りにうろうろ走りまわせるのが関の山だからだ。余談だが旧ソ連のプロパガンダ映画『戦艦ポチョムキン』が名作とされているのは大群衆エキストラの「本気の動き」にあるのだろうと思う。建国直後のソ連にはそれが可能だった。

この映画の魅力は実はアーカイブ映像が持つ現実の威力にある。政府による弾圧シーンもそう生々しいものは出てこないが、背中を刃物が通り過ぎるような切迫感がある。映画はこの現実のリアリティの間を埋めるように制作されている。

実はこの映画は一般のレビューを見るとけっこう賛否両論だ。はっきりいってとっつきにくいのである。パブロ・ラライン監督はこの映画をドキュメンタリーのように撮りたいと考えていたのだろうか。終盤に至るまでおよそBGMというものがなく(だからこそCMのテーマソングが耳に残るのだが)、カット割りやクローズアップにホームビデオのような素人臭さがあったりする。

特に前半の主人公がNo陣営に勧誘されるシーンや海辺で戦略を練るシーンはかったるく、わざとやっているのなら少々やり過ぎだろう。まるでたまたま撮っていた映像を無編集でつなぎあわせたみたいだ。

登場人物の演技も全体的に役者っぽさが抑えられている。こちらは非常に効果を上げていて、特に主人公の作ったCMに激昂して立ち去る反政府活動家の闘士などは本物にしか見えない。
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この映画は政治について扱った映画であるので、当然映画の内容は映像表現だけにとどまらない。ストーリーで印象的なのは、この映画には明確な「敵」がいないということである。

主人公に反発する人々はみな「味方」陣営だし、 最大の敵である「Yes陣営(体制側)」の上司はいざとなると助けてくれる(もっとも事後の保身を図っただけかもしれないが)。元妻は別の男性と同居しているが、その男はNo陣営のシンパであり主人公にも好意的。ピノチェトはアーカイブ映像にしか登場しないし、Yes陣営の大臣は元妻の釈放に協力してくれる。

そして「味方」がついに勝利した時、歓喜する群衆が「跳ねないのはピノチェト!」と跳ねて叫ぶ中を主人公は跳ねずにトボトボと泣きながら歩く。政治とは敵と味方に分かれて争うことだが、主人公はその争いの暗さを飛び越えて明るいイメージを提示して勝利した。しかしそこに争いの暗さを避けた矛盾がある。主人公が流しているのは純粋な嬉し涙ではない。

そしてもっと大きな矛盾はラライン監督自身である。監督はインタビューの中で、主人公の取った資本主義的戦略が実は元々はピノチェト政権のやり方でもあり、その同じやり方で政権を覆したことが現在のチリのひどい格差と企業支配を生んでいると指摘する。
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この映画は映像表現が見事だが決して見やすくはない。圧政を倒す物語だが勧善懲悪ではない。恐怖と苦難の中で大衆ウケする明るく楽しいファンタジーを生み出す物語で、ハッピーエンドで大団円だが様々な課題を突きつける。

人を選ぶかもしれないが様々な角度から何度も観直す価値のある映画だ。

2 件のコメント:

  1. これは知りませんでした。興味深いです。

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    1. 僕はまず映像に惹かれてますが、政治ドラマですので現在の政治とも当然どこかでリンクします。理想的な勝利が理想的な結果をもたらすかどうか?まあそこまでは劇中で語られるわけではありませんが。

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